花街の繁昌と廃娼運動
支那の売笑婦は、其出発点に於で政治に利用されたことは、前に述べた如くであるが、其後歴代の政治当局は或は人心の緩和策に、或は都市繁栄策等に用ひ極めて巧みに利用して今日に及んで居る。最近の例としては、何といっても、段芝貴の楊翠子落籍事件である、落籍したる楊翠子は振貝子に贈られこれに拠って、完全に政治的野心を遂行し得たのである。近くは民国の快男児蔡鍔が、遉の袁世凱をして顔色なからしめた、北京の名妓小鳳仙との関係の如き、人口に膾灸された所謂風流韻事の一つである。斯くの如く支那では、花柳界に出入することは天下御免である。何等社会的に忌避さるる訳でなく、之を利用する習慣が存して居る以上、之に拠るを便利とするから、花街は益々繁昌し、売笑婦は日に増加して底止する所を知らぬのである。
要するに支那の売笑婦は、社会的要求によりて生れ、社会に無くってならぬ一分子となって居る。最近、支那の各地に、廃娼運動が起って居るが、それは某外国の場当り政策や、偽君子輩の戯言に過ぎない。日本に於ては、昔は水野老中の失敗、明治となってから基督教一派の廃娼論より社会問題を換起し、名古屋地方裁判所の新判例より救世軍の活動となったが、結局は存娼の要旨を明示するの結果となり、廃娼策の至難なるに帰した。近くは大正五年警視庁の私娼撲滅計画等、一として矢敗に終らざるものは無かった。支那に於ても社会の改善を計り、家庭を根本的に改革し、国民の頭を全然改造するに非ざれば、売笑婦を社会の一分子より除かんとすることは、絶対不可能なる要求である。