隋煬帝の風流と妓女
南北朝を統一した隋の文帝は、勤倹にして、仁政を行つたが、其子の楊広、後の煬帝の淫行は、殆んど言語に絶せるものがあつた。彼は太子楊勇を廃し、自ら東宮に立ち、父帝の病に侍して愛妃宣華夫人の美に動かれ、之を挑んで父の怒を受け、遂に父帝を殺して、夫人に迫り非倫の恋を遂げたといふ大逆を敢てした。
帝位に就くや、洛陽に「顕仁宮」といふ離宮(当時長安に都せり)を建て、その西方三里に「西苑」を設け、中に五湖を堀り、各湖水を通せしめ、その中間には、渠を挟んで岸頭に十六の宮院を造つて、全国より美女数百人を物色し、その中より十六人の佳麗を挙げ 各々四品夫人に封じて十六院に配置し、更に三百二十人を選んで、一院に各二十人を分ち、吹弾歌舞を習はしめて御宴に侍るの設けとなした。即ち、この一院は呉歌を唱へ、彼の一院は楚袖を舞ひ、東の一院は金盤に玉鱠を作れば、西の一院は仙家の瓊漿を醸すといふ風に、院々華麗を竸ふたといふ。
又、江都(江蘇省)の「張ふふ黔」の瓊花は、天下の名木であると聞き、之を見んが為 に長安よ江都まで、一千余里の間に、四十余箇所の荘麗なる離宮を作り、その間を「御女車」に乗り、美人を従へて練り歩ひた。後には水路を開かせ、龍船を浮べ、風ある時には錦帆を張り、風なき時は一千の羊と、一千の「殿脚女」と称する少女隊をして両岸より網を以て曳船をさせたものだ。煬帝の奢侈豪遊は、挙げ来れば限りはないから、茲には略するが、十六院の美人や、殿脚女の中には妓女も加はつて居つた。殊に寵愛を受けた「香娘」とか、「妥娘」とか、姑蘇の「呉絳仙」などは女楽出身と思はるる点がある。