官僚と芸者の馴染
前清時代に、曽国藩が両江総督となった時に、部下の某役人が、曽国藩が道学先生であるところから、其意見に迎合する為めに、其赴任前に土地の女郎屋を悉く逐出して了つた。然るに曽は、着任後逐出された女郎屋を悉く呼び戻して、其上芸者を肴に群僚を集めて大宴を張ったことがある。これは曽の積りでは謝安の絲竹陶写を気取って、老人の風流振りを見せたのであらうが、これでも支那の士大夫が妓女に対する心理状態がわかる。近い例を言ふと、数年前龍済光が上京した時、部院の大官等が、龍の為めに、城南の名妓二百余人を呼んで大宴会をやった如きである。
芸者を呼んで、酒間の斡旋をさせるのは、古今一轍官界の習慣となり、官吏にして芸者に馴染を持たないものは、幾んど無いといってもよいのである。尤も、日本でも芸者の一人位は馴染に持たねば肩身が狭ひと心得て居る者が多い。現在北京の官僚として幅を利かせて居る連中の、姨太太即ち第二夫人以下を見ると、大概が脂粉の揚りである。八大胡同に出入するものの多くは、これ等官僚が其多数を占めて居るのである。巷間に流布せる「官僚得めれ」や、其他の書物を見ると、其例が歴然と書かれて居る。之が一般に影響した結果は、惟だ肉欲の快を貧り、青楼に連する者も頗る多くなって来たやうである。