乾隆帝と八大胡同
斯くて東西両院は、清朝となつてからも引続き隆盛を極めてゐたが、乾隆時代になつてから何時ともなく自然に消滅して了つた。それには理由がなからねぼならぬ。乾隆帝は三度び南方を巡歴し、各地に於て歌妓、名優を聘んで歌舞に興じ音曲に楽んだこともあつた。別けて安徽の太平府に於ける名優の演戯に深く感ずる所あり、遂には大金を投じ、勅を下して江南の名優を悉く北京に召致した。斯くて「班大人胡同」今俗に呼ぶ「八大胡同」一帯をこれ等俳優に下賜し、軒を連ねて居住させ、時々宮中に聘んで百官と共に楽んだのである。崑曲の北方に南方の二簧が這入つて来て、北方の劇界に大改革を加へたのは此時であつた。当時俳優は恰も日本の抱相撲や、露西亜の帝室附俳優の如く、勢の当るべからざるものがあつた。
是等俳優の跋扈は、東西両妓院にも及び、芸を以て客席に陪る妓女の必要を認めなくなり、日に衰微し、遂には其跡を絶つに至つた。それと同時に西城に売肉専門の遊女屋が出来て相当に賑つたといふことだ。西城の魔窟は、宣武門内の今の参衆両院のある象坊橋辺りから、西単牌楼の附近であつたといふ。数年前、宣武門内の某胡同の古井戸から当時妓女が使用したらしい、髪道具等を発見したことがある。余り古いことでもないから、数多い清人雑筆の中に、当時の記録がありさうなものであるが、見当らぬのは遺憾である。