不夜宮と長春苑
喜宗の時北京城内に「花柳街」「胡同巷」といふ二つの廓が出来た。前者は、其門上の額に「不夜宮」と認め、娼妓の媚を売る処とし、後春の門城には「長春苑」の額を掲げて専ら「相公」即ち美少年の男妓を集め、客を招いて盛んに風俗を乱した。これが北京に於ける一般に公開された遊廓の元祖である。
「不夜宮」と「長春苑」の二廓ができて、不夜城を現出するや、之を聞いた喜宗は大に喜ひ、近侍に命じて長春苑よりは「少弥」といふ一美少年を、不夜宮よりは「塞施」と称する一美妓を宮中に召して左右に侍せ」めた。此二人は二廓に於ける代表的美男女であつたこと勿論である。喜宗は其の夕年少女を非常に愛した、すると是等の男女は互に其の寵を争ふやうになり、一日賽施は先づ男色を遠ざけんことを帝に奏した。これを聞いた少弥は女色の害あゐことを主張して、之を退けんことを奏した。帝はその争が面白く、二人に口論をさせては喜んで居た。遂にはそれに飽足りず、内官に命じて、長春苑よりは孌童の全部、不夜宮より妓女の総てを宮中に召し寄せ、帝自ら比翼宮に至つて、是等の男女を左右両隊に分けて、男色の害と、女色の害とに就いて弁論を戦せしめたことがある、これ等は支那売笑史に特筆すべき出来事である。
喜宗は其後是等の孌童、美妓を悉く宮中に呼寄せ、同名の両院を設けたので、二廓は自然に消滅するやうになつた、この二廓は、今北京の何れに当つて居るか、未だ確証を得ない。斯くの如く、前記の二廓は閉鎖しても、永い間吹き荒んだ北京の淫風は容易に納まらぬのであつた。