世界に於ける芸妓の元祖
女閭を設けた斉の桓公の時は、西暦紀元前六百四十八年(管仲が斉に捜された年)頃であるから、今より二千五百七十一年前(大正十二年より起算し)に当る。さうすると、茲に当然起るべきは「世界に於ける芸妓の元祖争ひ」である。世の学者は、アゼンスのコンパニオンを以て世界に於ける芸妓の嚆矢として居る。コンパニオンとは件侶の意で、古い時代アゼンスの男子は、美しくて歌、音楽ができ、其他学問に曉通した交友として此種の女を愛した。アゼンスの支配者で西洋史上に名高い、彼のぺリクレスが寵愛したアスパシヤは此ゴンパニオンの一人であった。ペリクレスがアセンスの全権を握ったのが、紀元前四百四十四年で、我国の人皇五代孝昭天皇の三十二年である、今年(大正十二年)より二千 三百六十七年前となる。さうすると、斉の桓公の時よりも約二百年ばかりの相違がある。支那の方が先鞭を着けて居る。
試に日本を観ると、日本の遊女は、奈良朝時代に、海岸筋の泊り泊りを遊行し、そこを通る官人の召しに応じて、旅情を慰めてゐた「遊行女」を以て、芸妓の祖先と見做すことが出来る。さうすると今から千五百年である。併し厳格に詮議することになると、人皇七十四代の烏羽帝の頃に、歌舞を以て立つた「白拍子」を、日本芸妓の祖先とするのが至当である。「白拍子」は、鳥羽天皇永久三年島千歳、若の前の女舞を以て始めとする、当時は紀元千百十五年、今より八百八年であるから、遠く支那に及ばぬのである。斯う詮議して来ると、妓女は世界に於て支那が一番古い歴史を持って居る訳となる。支那の売笑婦は斯の如き名誉ある歴史を以て出発して居る。