宮中の遊廓と天子の素見
南北朝時代になつてから、斉の宝卷帝が獣に等しい淫行は、随分宮中に妓女を横行せしめた。宝卷は父明帝の死後、その遺した妃は勿論、姑姪姉妹に迫つて意に従はしめ、それにて尚飽き足らず、常に遊行して、女でさへあれば、手当次弟に宮殿に拉し来つて肉欲を恣にしたので、妓女出身の美人を宮中に跋扈せしめた。煬帝艶史にあるが如く、宮苑に「臨春閣」、「結綺閣」、「望仙閣」の三高楼、其他多くの宮殿を築き、沈香檀木を以て柱となし、金玉珠翠を以て飾となし、其下には石を積みて山となし、水を引ひて池となし、実に天下の美を極めた。さうして民間より妓女その他の美女数十人を集め、之を一楼一閣に分ち、恰も遊廓のやうなものを造つた。斯くて宝卷は嫖客の如くに装ひ、◯(女偏に妾)臣王胆元等を引卒して、一処一宮を素見しては長夜の宴を張り、花の下、月の影にその作「玉樹後庭花」の曲を唱へつゝ君臣相ひ酔ふて暁に至ることすら多やつた。この時「潘妃」といふ女楽出身(女楽時代は玉児という)の美人がゐたが、宝卷は楼閣の通路に、黄金の蓮を敷き、その上を潘妃に歩かせ、恰も花の中より出現せるが如くに装はして楽しんだ、後世「播金蓮」と称するのはそれのことである。