雅楽寮と妓生の伝来
唐に「宜春院」が設けらるる以前、隋時代から宮中に女楽の外に「清商署」なるものが設けられ「伶人」即ち宮中の楽人が居た。之れは唐に至り「太楽署」となり、日本に伝来し、それが「雅楽寮」となつたのである。妓女と関係はないが、雅楽寮は、唐代の教坊や宜春院の風が伝つたものであると思つて居る者もあるやうだから、序ながら記して置く。
「倡妓」(娼に同じ)といふ言葉も此頃にできたらしい、旧唐書に「百姓殷楽、家有奇楽娼妓」とある、倡は「うたひめ」のことで、男優を優といふに対し、女優の称にも使用する。此時代高麗には、慕華の思想が盛んであつたので、官妓の制は朝鮮に伝つた。 それが今の「妓生」の前身である。妓生は何時の世にか純然たる売笑婦となつて了つたが、当時は宮中宴席の興を助くるに欠くべからざるものであつた。