周代と売笑婦
前述の如く、支那の売笑婦は、周代に其源を発してゐるが、妓禍が帝王に及んだことは無い。周堂には幽王の褒姒に於ける、恵王の陳嫣に於けるが如く、女色に迷ふて政治を怠り、その滅亡を早からしめたことはあつたが、売笑婦が帝王に接近するまでには至らなかつた。その代りに、諸公にして其害を蒙ったものは少なくなかつた。指を先づ斉の策略に乗やられたる魯の定公に屈する。前に述べた論語の「斉人歸女楽」の句よりして「斉歸」といふ言葉までできた。
「斉歸」に対し、「鄭賂」といふ句がある、これは、左伝にある「鄭人賂晋侯以女楽二八晋侯以楽」に本づきたるものである、韓非子にも「以労其心乱其政」とあるから、女楽に迷ふて政を乱したことが解る。史記秦本紀に「女楽二八遺戎王、戎王受而説之」とあり、墨子に「秦穆公之時、戎強、穆公遺之女楽二八、戎王大喜、数飲宴日夜不休左右有言秦寇至者、囚弯弓而射之、秦寇杲至、戎王酔而臥於尊下、卒生縛之」とある戎王も女楽の害を受けたと見える。その他、斉の桓公、懿公、宋の昭公、康王、衛の宣公、魯の桓公、宋公、文公等も女楽や、女楽出身の女の為めに禍を受けて居る。此間は春秋戦国の世にて、世は修羅の巷と化し、二南の化、全く衰へ、諸侯の淫乱は天下を蠧毒し、民風腐敗の極、男女礼を以てせず、私に奔つて野合を為すもの多く、従つて売笑婦の隆盛を来たし、之が盛んに政策に用ゐられた。