漢の武帝と営妓
秦は、僅に三世十五年にして亡んだ。之に代つたのが漢である。漢の高祖の死後、呂后の専横より、二代恵帝の捨鉢的な乱行は、後宮に宮殿を営ませ、美妓を集めては日夜淫酒に親み、遂に病を得て崩じた。呂氏の一族を平げて立つた文帝は、仁政を布いたので海内無事なること二十余年に及んだ。次の景帝時代には、呉楚七国の乱等があつたが、程なく討平して、漢の天下は清平となつた、景帝より位を譲り受けたのが武帝である。
漢の武帝は、秦皇以来の英主にして、大に兵力を用ゐて、国威を耀した。その在位五十余年の間、南越を平げ、朝鮮を従へ、匈奴を逐ふ等、外征の事頻々であつたが、武帝は、士気を鼓舞する為めに、軍士を賞するに妓女を以てした、之を「営妓」と称した。漢武外史に「漢武帝始置営妓、以待軍士之無妻室者」とあり、左伝の所謂「三叛人」といふのがそれである。軍士の労を慰むるには之に如くものは他に求めて能はぬのである。又「命営妓、人与紅綾一匹」あるを見れば、営妓の手にて賞品を軍士に与へたやうである。斯の如くにして陣中の花は咲き誇つたのである。斯ういふことは後来に於ても盛に行はれた。この一事は、支那売笑発達史上に特筆すべきことである。
支那の営妓と軍士との風流事に似て居ることが日本にもある。富士川の合戦で、平一家の将卒が、陣中に遊女を招きて酒宴を張つたといひ、富士の裾野の卷狩に、源氏の将帥達が、大磯化粧坂の遊女を集めて演舞せしめたとも伝へられ、当時殺伐な武人が娼婦に接して寛潤に誇つたのが察せられる。頼朝が新に遊女の別当を設けたのは故なきでなかつた。北条氏が覇権を握るに及んでも、なほ遊女の別当を置き、元弘以来、戦乱各国に起り、新田義貞は金ヶ崎城に楯籠つた時も、島寺の袖といへる遊女を愛したと、太平記に書いてあつたと記憶する。斯くの如く、戦国の間に娼女の隆盛を極めたことは日本も支那も同様であると見える。
諸書に「古未有妓、漢武之営妓以為始」とあるから、往々「営妓」を以て支那に於ける妓女の濫觴と思つて居る者があるが、そうでない、このことに就ては前に述べて置いた通りである、しかし「妓」の字を附したのは之が嚆矢と思はれる。之等の「営妓」は往々功有る将軍に想はれ所謂玉の輿に乗つた者も少なくなかつた。現に武帝の李夫人は、妓女の出身であつた。営妓は一時の産物に過ぎなかつたが、後来戦争の有る度毎に之に類した白粉艶なる妓女が営中に出入し、琵琶を弾じ、瑟を奏し、歌舞して軍士を慰むるのみでなく、時には落花流水の風流も公然行はれたのである。