明代の教坊と楽戸
明代に於ける帝王の淫縱は、筆紙の尽し得る所でない。明朝十四代の神宗の如きはその甚しき一人で、妓女の遊びとして近頃まで遺つてゐた、「蝶幸」とか「営幸」とか「紅幸」又は「情紅」とかいふ遊戯は、此時代にできたものである。神宗、光宗の後を亨けた喜宗も、父祖に等しき荒淫の天子であつた。斯くて上の好む所、丁之に做ひ北支官民の風俗は、甚しく淫蕩に陥つた。五雑俎(明の謝肇淛)に「今時娼妓布満天下、其大都会之地、動以千百計、其他窮州僻邑在在有之、終日倚門献笑、売淫為活、生計至此亦可憐矣」とあるから、当時の一般を知ることができる。
明代にも教坊司の設けがあつた。其制度は唐宋時代と大差はなかつた、明朝教坊規条碑に「入教坊者準為官妓、別報丁口賦税、……官妓之夫縁巾縁帯、……着猪皮靴……」とある。又五雑爼には「両京教坊官、収其税謂之脂粉銭、隸郡県者則為楽戸、聴使令」とある。「楽戸」とは、魏書刑法志に「古時罪人之妻女、没収入官為楽戸」とあり、辞源に「明時山西陜西両省人民、凡在建文来、不附成祖纂立者、悉編為楽籍習賤業、世世子孫不得与斉民歯、清雍正元年、始免除之、令其改業為良民」とあるが、面白いことである。現在支那では「楽戸」とは専ら妓館の称となし、公文に使用されて居る。