妓女、孔子を走らす
一度女楽に接した定公は、熱心であった政治を怠るに至り、斉の政策は見事に功を奏したのである。之より孔子は、公に対して勢力を失ふに至った、史記孔子世家に「子路曰、夫子可以行矣、孔子曰、魯今且郊、如致膰乎大夫、吾猶可以止」(孔子家語にもあり)とある如く、弟子の子路が孔子に向ひ、定公の度すべからざるを述べて退位を勧めたが、孔子は、近日郊祭がある、その時に若し膰、即ち祭肉を大夫に頒つならば、自分はなほ留まるといって、その日を待ったが、女楽に迷った定公は、三日間朝政を廃し郊祭は行ったが膰を頒たなかった。こゝに於て、孔子は与に為すに足らずとなし、官を辞してしまった。論語に「斉人歸女楽、季桓子受之、三日不朝、孔子行」とあるのはこのことである。
孔子は、それより自から進んで放浪者となり、十四年といふ永い間、各地に流浪するに至った。孔子が「彼婦之口、可以出走、彼婦人之謁、可以死敗、盍優哉遊哉、維以卒歳」(史記)と歌ったのは、魯を去るに臨んでのことである。斯くの如く、大聖人、大政治家たりし孔子の力を以てしても、売笑婦は如何ともすることが能きなかったのである。況や凡夫に於けるをやである。前書きに述べて置いた如く、如何なる力を以てしても、人間の生存する以上は之が撲滅は不可能である。斯うした政策は、後来何れの時代に於ても行はるるやうになったが、大概は其術中に陥つて了ふのである、人情の機微に触れた人の悪い卑劣な行り方である。若し之を「妓禍」とでも呼ぶことができるならば、魯の定公は支那に於ける最初の妓禍を蒙つたといはねばならぬ。
(附記)
(一)
唐の呂温の斉人歸女楽賦に曰く「斉人帰魯、傾城八人、瑰◯絶代、綺羅嬌春、洞横波於慢臉、流風於嫋身、蓋以仲尼定礼楽、制君臣、故遏雲与廻雪、実内園而外観、魯君臣、果不端操、遠不先覚、於是考雷鼓黙雲握、結斉魯之歓、受鄭衛之楽、」
(二)
史記楽書に「自仲尼不能与斉優遂容於魯、雖退正楽以誘世、作五章以刺時、猶莫之化」とある五章の刺とは孔子が魯を去る時の歌を指すと史記にい索隠ふ