教坊と宜春院
唐代には「教坊」が設けられ、之を司る「教坊吏」といふ役人まであつた。唐百官志に「開元二年置教坊於蓬莱官側、京都置左右教坊」とあり、教坊記(唐の崔令欽著)に「西京(洛陽)右坊在光宅坊、左教坊在延政坊、右多善歌、左多工舞蓋相囚習、東京(長安)両教坊、倶在明義坊中、右在南、左在北也、坊南西門外、即苑之東也、此間有頃余水泊、俗謂之月陂、形似偃月、故以名之」とある。さうすると、教坊は開元二年に初めて設けられたかといふに、そうではない、それより以前にあつた。同書に「武徳後」、置内教坊、武后改日雲詔府、以中官為、使開元後始不隸太常」とある。教坊を設けたわけは、文献通考に「唐元宗以太常礼楽之司、不応典倡優雑伎、乃更置左右教坊、以教俗楽」とあるを見ればわかる。斯くの如き理由の下に、散在せる倡優を一廓に集めて、之に歌舞を教へたのである、女楽を主として居たことは勿論である。唐書に「掌俳優雑劇以中宮為教坊吏」とある、続事始にも「玄宗立教坊、以新声散楽之曲、優倡蔓衍之戯」とある。
当時、宮中には「官妓」を取締る為めに「宜春院」といふ一の官署が設けられた。官妓は内庭に供奉し、又は公署に抱えられた女楽のことである。輟耕録に「以古穢妓為官婢、亦曰官奴、漢武帝始設営妓、為官妓之始、唐宋時尤為盛行、如唐之教坊女妓」 とある。前に述べた如く漢の武帝以来、宮中に此種の女が抱えられてゐたのである。官妓は又「声妓」とも称した、唐書太平公主伝に「天下珍滋譎怪、充干家、供帳声妓与天子等」とある。宜春院の制度は教坊記に詳記してある、その一例を挙ぐると「妓女入宜春院、謂之内人、亦曰前頭人、常在上前、若其家猶在教坊、謂之内人家、勅有司給賜同十家、雖数十家、猶故以十家呼之、毎月二日十六日、内人母得以女対、無母則姉妹若姑一人対、十家就本落余内人並坐内教坊対、内人生日則許其母姑姉妹等来対其対所如式」の如きである。なほ教坊に就ては夢梁録(宋呉自牧若)第二巻の「妓楽」の部に詳記してある。