後梁から宋の滅亡まで
唐を滅して自ら立つた後梁の朱全忠も、盛んに妓女を漁つた、その次子の友珪は亳州の娼婦が産んだ子である。それから降つて後周の世宗に南唐から献上した「奏弱蘭」「杜子姫」の二美人も娼婦であつた。世宗はこれ等娼婦上りの妃嬪の為めに、後宮に「称花楼」などの宮殿を作つて栄華を極めたので、疾く人心を失ひ、国を宋に譲らねばならぬ破目となつた。
宋に至つては、太宗が官妓に将校を賜つたなど史に見えて居る。北宋の徽宗が「大晟楽」を作り「延福宮」を建て、「保和殿」を営み更に「万歳山」を築き、不夜城の壮観を呈し「先賞元宵」の言葉を遺したことや、南宋の理宗帝は「芙蓉閣」と「香蘭亭」の遊宴の二台を作つて、数十の歌妓俳優を集めて歌舞せしめ、賈姫、閻姫の二美姫を寵し、賈姫の弟賈似道を重用して、国政を誤つて顧みなかつたこと等は有名なる話である。理宗の淫縱なる生活に、遂に国勢を回収するの期なくして、元の為めに併呑さるるに至つた。