俳優と妓女の反目
それから程なく、乾降帝が節婦香妃の憤死と太后の諫言とにより、翻然と悟るや、断乎として八大胡同の俳優を開放して了った。其後彼等は生活に窮し、男ながらも其美貌を種に客席に媚を売り、甚しきに至っては、肉を鬻いで色を漁る好奇心の犠牲となったのである。これ等の男妓は、清末まで所謂「相公」と称して、公然と娼業を営んで居たのである。一方西単牌楼附近に散在して居た妓女は、道光の末より咸豊の初のめに内城に於いて娼業禁制の令発布さるると共に、外城に放逐されて了つた。これ等妓女は、八大胡同に転じ、男妓の中に伍して、恰も明神宗時代の「不夜宮」対「長春苑」の如く、桃季色を競ふたのであつた。
妓女を置く妓館は、門を開いて遊客の随意出入に委せ、相公を置く妓館は門を鎖して門前に紅燈を揚げて、其区別を明かにしたといふことだ。しかし男妓が如何に秀麗にして、奇を以て客を呼ぶと雖も、遂には女に及ばず自然に圧倒されて了った。日本では、芸者は役者に惚れる者と相場が定まり、役者が芸妓揚りを女房に持った者が頗る多い。然るに支那では、不思議に芸妓と役者とは殆んど醜交が無いといってもよい。数年前上海の武生(武戯役者)康喜壽が某妓と情交を結んで問題となった位が特筆大書すべきことで、その事件以来、此種のことを耳にしたことはないのである。これは、 或は、永い間男妓と女妓との反目が、遂に茲に至らしめたのだと見るのも、亦一種の解釈であると思ふ。