支那売笑婦の起原
支那に於ける売笑婦の起原に就いては、万物原始(私は未だ此書を見たことはないが記門邇言その他に引用してある)に 「洪涯妓三皇時人、倡家托始」とあるさうだから、三皇時代に已に売笑婦が存在してゐたものと解釈し得るが、何しろ、三皇時代といへば伝説的人物の世で、荒唐無稽の説が多く、他に考証すべきものがないので、信を措くに足らぬのである。
正史に現はれて居る記録を見ると、支那の売笑婦は、東周の襄王の時に始つて居るといはねばならぬ、戦国策に「斉菅公宮中女市女虜三百」とあり、かかに「管仲設女閭三百」とある。彼の有名なる管仲が、斉の国(今の山東省の一部)の宰相をしてゐた時に、諸国から入込む旅商の為めに、女閭三百を設けた。閭とは、周礼に「五家為比、五比為閭」とあるから、一閭は二十五家である、さうすると非常な数になるが、「二十五家を里となし、其門を閭といふ」ともあるから、三百軒であったらうと思はれる。壹是紀始に「娼始於斉」と云へる如く、それが抑々、支那に於ける売笑婦の濫觴である。
女閭の制は一定してゐた、「三瓦両舎」といふから微々たる設備であつたらうが、一つの遊廓(付記参照)には相違なかつた。兎に角、最初から一定の場所に、売笑婦を集めた点は、遉に斉の桓公をたすけて天下に覇たらしめた賢相(えい政の罪人ともいうものあり付記参照)である、西洋も日本も、此制度を執つたのは後代のことに属する。
〔附記〕
(一)
支那では、昔遊廓のことを「瓦舎」とも称した、この女閭の制から転じて来たものに相違ない。瓦舎とは、「その来る時に瓦合し、その去る時に瓦解する、即ち聚め易く散し易い義である」(夢梁 録)といふから、遊娼の仮住居である。宋代の汴都(今の河南省開封府)や杭城紹興の間には盛んに「瓦舎」が設けられたといふ、夢梁録に「頃者、京師其為士庶放蕩不羈之所、亦、為子弟流連破壊之門、杭城紹興駐駅於此、殿厳樢和王因軍士多西北人、是以城内外剏立瓦舎、招集妓楽、以為軍卒暇日娯戯之地今貴家子弟郎君、因此蕩遊破壊、左甚于汴都也、其杭之瓦舎、城内外合計町十七処」とある、瓦舎の集る処を「瓦子市」と称した、同書にはこの十七瓦子市を列挙して居る。
(二)
謝肇衛は五雑爼に「昔秦始皇之法、夫為寄暇殺之無罪、女為逃嫁子不得母、至今日而奮然与衣冠宴会之列、不亦辱法紀、而盖当世之士哉、噫是法也誰為作俑、管子之治斉、為女閭七百、徹其夜合之資、以佐軍国、則管氏者又贏政之罪人也」と、管仲を贏政の罪人としてしまつて居る。