北京に於ける元代の公娼
教坊は、文献通考に「宋乾道後不置教坊」とある如く、一時中絶の姿であつたが、元に至り、再び「立教坊司掌天下妓楽」となつた。元代の公娼に就てはマルコポロ紀行第二編第七章に
金銭の為に春を鬻ぐ公娼がある、其数新都内と旧都の廓外に居る者とを併せ算すれば二万五千に達する、公娼百人若くば千人毎に管理の吏員あり、其上に総管一員ありて之を指揮する、彼等を斯くの如き管理の下に置く所以の者は、朝延に利益ある使節の着府ある時は、皇室の費用にて之を賄ふを常例とする、最も鄭重に取扱はんが為に、総管に命じ、使節一行の人々へ夜々一人宛の娼婦を給与し、且つ毎夜之を交換せしむる、而して彼等は此役に服するも別に之が給金はない、是れ之を以て朝廷へ奉るの税と看做さるるからである。
マルコポロが元の都、以前の北京に遊んだのは、元の世宗(忽必烈)の時である、果して二万五千の公娼が居たとすれば、実に盛んなりといはねばならぬ。さうすると之を以て、北京に於ける公娼の元祖と見做てもよい。しかし一般に公開した遊廓の元祖とするのには何だが物足りぬ感じがする。
元代最後の帝王であつた順帝は、驕奢淫佚朝政をなること甚しかつた。大尉哈麻なる者、女楽師五十人を奉るや、帝は大に喜んで之を納れ、朝務終つて後宮に入る時には、毎日之等の女楽を盛装させ、歌を唱ひ、楽を奏しつゝ出迎させ、これに囲繞されつゝ後宮に入つて、酒宴に耽るのを例としてゐた。後妖僧伽隣真を愛してから、其勧めを用ゐ、醜行更に深がつた、斯くて元は亡び明に代つた。