唐代の遊廓平康里
快楽主義の権化たる煬帝は、其後盛んに淫楽に耽り、終に三十九歳にして反軍の為め捕へられ、白絹にて締殺された。斯くて隋は亡びて唐の手に移つた。唐には長恨歌に浮名を流した玄宗帝が、後宮の侍女少年をして歌はした「風流陣」など書くべきことが多い。支那の売笑婦は、唐代に於て組織的に発達した。長安には立涙な遊廓があつて、之を「平康里」又は「北里」と称して居た。開天遺事に「長安有平康坊、妓女所居之地、毎年新進士遊謁其中」とある。時の人は之を「風流藪沢」とも謂つた。今でも支那では遊廓のことを単に平康里といつて居る。唐代に於ける平康里は、なかなか完美してゐたらしい、北里志(唐の孫ケイ著)に
平康里入北門東回三曲、即諸妓所居之娶也、妓中有錚錚者、多在南曲中曲、其循墻一曲、卑屑妓所居、頗為二曲軽視之、其南曲中者、門前通十字街、初登館閣者多於此竊游焉。二曲中居者、皆堂宇寛静、各有三数庁事、前後植花卉、或有怪石盆池、左右対設、小雷電簾、茵褥帷幄之類称是、諸妓皆私有所指占、盛事皆彩版以記諸帝后忌日、妓之母多仮母也、(俗呼為爆炭不知其因応以姑息之故也)亦妓之衰退者為之。諸女自幼馬有、或傭其下屋貧家、常打不調之徒、潜為漁獵、亦有良家子、為其家聘之以転求厚賂、誤 陥其中、則無以自脱。初教之歌令、而責之其賦甚急、微渉退怠、則鞭扑備至、皆冒仮母姓、呼以女弟女兄為之行第、卒不在三旬之内。諸母亦無夫、其未甚衰者、悉為諸邸将輩主之、或私蓄侍寝者、亦不以夫礼待、(多有遊惰者於三曲中而為諸倡所巻養必号為廟客不知何謂)比見東洛諸妓体裁、与諸州飮妓固不作矣、然其羞七筋之態、勤参請之儀、或末能去也。北里之妓、則公郷与挙子、其自祐一也、朝士金章者、始有参礼、大京兆但能制其昇夫、或可駐其去耳。諸妓以出里艱難、毎南街保唐寺有講席、多以月之八日相牽卒聴焉、皆納其仮母一緍、然後能出於里、其於他処、必囚人而游、或約人与回行、則為下婢而納資於仮母、故保唐寺毎三八日、士子極多、蓋有期於諸妓也、有一嫗号編州人也盛有財貨、亦育数妓、多蓄衣服器用、常賃於三曲中、亦有楽工、聚居其側、或呼召之立至、毎飲、卒以三緩、継燭即倍之。
とある、これを観れば、唐代に於ける北里は、今の遊廓と殆ど同様である。