東院の瑟に西院の琵琶
不夜長春両廊の前後は判明せぬが、北京の城内に「東西両院」といふ純然たる女郎屋があつたことがある。折津日記に「京師黄華坊、東院本司胡同、本司者教坊司也、又有匈闌胡同、演楽胡同相近、復有馬姑娘胡同、宋姑娘胡同、粉子胡同、出城則有西院、皆旧日之北里也」とあり、「宸頃識略」にもこれと同様のことが書いてある。又燕都遊覧志(明孫国荘撰)には「東院在総鋪胡同(今の総布胡同)東城畔、昔時歌舞地、今寥寥数家如邸舍兼之人堀上為坏、ま目坑塹、従寒煉衰草中、想走馬章台之盛邈、不可復尋」とあるから、東院は総布胡同や、本司胡同附近に在り、西院は馬姑娘胡同の附近にあつたと見える。
本司胡同や、演楽胡同は今の燈巾口即ち東単牌楼大街の北に在る、黄華坊も燈市口の附近であるから、史家胡同にかけあの辺一帯には、遊女屋が散在して居たのであつた。本司とは教坊を司るなりとあり、而して京師の倡家は此教坊に隸して居た。宸垣識略に「京師倡家、東西院、籍隸教坊、猶是唐宜春院遣意」とあるのを見ると、是等両院は唐の宜春院の遺習を踏んでゐた。又「東院以瑟、西院以琵琶、藉勲戚、以避貴游之擾」とあるから、東院の妓女は瑟を奏し、西院の妓女は琵琶を弾じて客の興を添へ、此両院は、勲戚の人の遊ぶ所にして貴遊の子弟と同じく燕飲することを憚つたと見える、此東西院の光景を描いた絵(口絵参照)は諸書に載つて居る。