妓女を政治に利用す
管仲が女閭を拵へたのは、諸国から入込む旅商を慰安すると標榜し、其実は税金を課して国富を計ったといへば、それまでであるが、単にそれだけの理由では物足らない。我徳川家康が、庄司甚左衛門の請願を容れて、江戸の鎌倉河岸あたりに散在して居た密淫売を、吉原に集めて、諸国の武士を犒ふと標榜し、其実は、永い間戦乱の巷を来往した荒くれ武士を、脂粉の中に投じて、骨もないまでに溶かした御手際と、共通した計略が潜んで居たことは疑ないことである。果然、魔の手は延びて来て、妓女を政治に利用することとなったのである。史記孔子世家に「於是選斉国中女子好者八十人、皆衣文衣而舞康楽、文馬三十駟、遣魯君、陳女楽文馬於魯城南高門外、季桓子微服往観再三、将受、乃語魯君為周道遊、往観終日、怠於政治」とあるを見ても解る。
当時、魯の国は全然無秩序の状態に陥ったことがあつた。周の敬王二十三年、即ち魯の定公十四年(西暦紀元前二十年)に、孔子が挙げられて魯の大司寇より相の事を行摂するやうになってから、政を乱せる大夫の少正卯を誅し、国政を与り聞くこと僅に三月にして、国内治まり、領主の勢力は大に伸長し、遂に魯は一躍して、列国中の盟主たるに至らしめた、その隣国の斉は、此の政治上の成功を羨望し、嫉視し、且つ恐れて、魯の疑心を沾はんと許議したが、その前に、古い慣用の一手段が行はれた。
その手段といふのが、前に引用した史記の如く、斉の国中より美人八十人を選び、皆文衣を衣せ、康楽を舞はしめ、文馬百二十頭とを魯君に附り、之を城南高門の外に陳した、魯の大夫季桓子は好色の徒であったから、微服して往って観ること再三、定公に之を受 けんことを勧めた、孔子は頗る之を沮んだが、遂に定公は喜んで之を受くる至った。