玉の輿を狙ふ支那娘
各国との通商を行ふやうになってから、各都市開港場に旅客商人等が集合するやうになった、それと共に妓女も益々増加し、昔に比較して非常なる発達を来した。清が亡び、民国となってからは、政治家や、破戸漢などか、南北の間に往来し、到る処にて徴歌選色、大に淫楽を恣にした。彼等は掠奪詐術でせしめた金を、塵芥の如くに花街に振り撒いたので、妓女等は以前に此し、数倍の利益を収むるやうになり、更に繁昌を見るやうになったのである。天津上海あたりで、器量のよい娘を持つ中産以下の家では、之を羨望して、遂に「天下父母の心をして、男を生むを重んぜす、女を生むを重んぜしむ」の心を起さしむるに至った。それは、支那のみではない、日本でも或国では、娘を生めば赤飯を炊いて祝ふといふことである。
一部階級の人が、好んで娘を花街に送るには、又一面娘の僥倖を賭した傾きもあった。それは清末から民国にかけての、北京、上海辺の妓館は、革命党や、陰謀家の最も都合よき秘密集合所であった。恰も明治維新の際、大老井伊の辛辣なる手を避けるが為めに、各藩の動王浪士が、多く密議を料亭の奥、柳暗花明の巷に凝らし、且つ燃え立つ壮心を、酒と女とによって慰めたと同様である。従って妓女と名士との間に、粋な関係を生じ、所謂「玉の輿」に乗った者が少なくなかった。