官妓と詩客文人
如上で、支那に於ける売笑婦変遷の大略を述べたつもりである。観じ来れば、史に伝らへれた妓女は前に述べた「女楽」とか「営妓」といふ高等の部に属する「官妓」で、主として宮中に置かれ、さなくば帝都に居を搆へ、多く貴人の召に応じ、音曲歌舞を以て宴席の興を助くるを業としたのである。柳宗元の「畜妓能伝宮中声」といふ句をみても解る。従って之等の妓女は、音曲歌舞は勿論のこと、女の礼儀作法を一通り心得て居なければならなかつた、恰も日本に於ける昔の「白拍子」降りて江戸時代の「町芸者」、吉原の「太夫」、又は「花魁」の如く、詩歌、茶、生花等に精通し、さむらひの相手が出来ねばならなかったと同様であった。
後世所謂南朝の金粉、北地の胭脂と称せらるるまで盛になり、詩客文人等は妓女を対象として、之を詩歌に詠じ、其間には蘇小妹とか李香君といふやうな才女名妓が現はれ、幾多天下の風流人をして、之を語って、口、香を生ぜしめたのである。之等が出た当時は士太夫争ふて之を詩歌に上ぼし、或は之を主題として小説を作り、其艶才を賞揚して已まなかった、当年の夙流事は、今に至るまで佳話として伝へられて居るものが多い。それは恰度、日本に於ける仙台侯で知られたか高尾、目黒に残る比翼塚で名高い小紫、揚尾の提燈に「てれんいっはりなし」とぬかした奥州、其他張で聞へた楊巻太夫、奈良義大尽の愛妓として知られた几帳や薫、九重などの侠妓、名妓を出したのと相似て居る。