客に対する観念と待遇振り
茲に一言述べて置き度いのは、此間に於いて支那国民性の一端が窺れることである。それは支那妓女は絶対に「振る」といふことが無いといつてもよい一事である。日本の女郎や芸妓のやうに、自分の境遇を知らず、自分の職業を弁へず」て、客に対して頗る不親切な態度に出るやうなことは断じて無い。日本の妓女によくある、自分の好きな客に対しては、血道を揚げて熱中するが、嫌ひな客に対」ては、残酷な取扱をするやうなことは、絶無といつてもよいのである。人間であるから好き嫌ひのあることは免かれぬが、気に食はぬ客は初めから客にしない。一且客として規定の玉代を受取つた以上は、絶対に一身を委せて終ふのである。日本の妓館の制度が、或は妓女の自由意思を束縛するので、嫌ひな客も無理に収らねばならず、従つて之に対する態度が 反抗的になつて来るのは、或は免かれぬことであるかも知れぬが、支那の妓女は妓館との関係も日本と異つて居るから、強制的に客を取るやうなことは絶対に無い従つてそうした弊害も生じないのであゐ。
自分が承諾して、売淫に対する代価を要求し、其要求額を支払つた客に対」、不満を抱かするやうなことは、道理に於て無いと観念した彼等は、実に柔順となる其期間は絶対に服従する。こう」た性格は、支那には共通」て居るやうに見受ける、家庭で使用して居る苦力でも、同様の観念を以て克く働き、日本人のやうに不平を唱ふるやうなことは無い、その代りに見切の早いことは驚くばかりで、自己に非なりと思へば直ちに辞し去つて了ふのである。先方からも愛され、自分も見込んだ花酒の客の持てることは非常なものであるといふことだ。翌朝妓館の門を出づる嫖客は、ふらふらと」て喪神したやうであるとの話である。たゞ彼等は、これも支那人特有の、「面子」が ある、体面を重する形式に捉れることで、人の前ではそうでもないが。一且室の扉は鎖され、二人対座となると態度は忽ちに」て一変するのである、馴れない日本人などは、面喰ふて海月のやうになるといふことである。