芸も売れば身も売る
「芸は売つても身は売らぬ」とは、日本の芸妓の間に昔流行した言葉である。言葉が有つたのみならず、昔の芸者には斯ういふ意地と張りとが有つた。芸者ばかりでなく、枕席に侍ベることを標榜して娼業を営んで居た「花魁」でも、漫りに嫖客の自由にならなかつた。意地と張りとを立て通す為めには、白刀の下に、自若として動かなかつたことは稀らしくなかつた。明治維新の際、京都に於ける芸妓の如きは、志士に内応し、身命を屠して国家の為めに尽瘁した。又明治の初年、横須賀に於ける一遊女は「降るアメリカに袖はぬらさじ」と、終に自刄して大和撫子の意気を示したことがあつたが、時代の変遷に伴つて、段々堕落して今の芸妓には斯うした意地は薬にしたくもなく、殆んどが、不見転に成り果ててしまつたのである。
支那芸妓は、漫りに客の自由にならず、恰も昔日の日本芸者の如き意地を持つて居るといふ者が多い、今まで支那の妓女を説く者は口に筆に
支那の妓女は日本芸妓と異り、容易に妥協しない、若しこれを自由にせんとするには、深草の少将を極め込んで、大にその親切振りを見せてから、女がこれに絆されて口を切るまで、海路の日和を待たねばならぬ、若し客の口より漫りに情交を迫れば、廓の憲法に触れ、忽ちにして妓女の肱鉄を喰ふのみならず、「打茶囲」をする遊客の資格を夫ふ
と称し、未だ支那妓館に遊ばざるもの、又は遊び馴れざる者は、之を信じ、或は支那の妓女を賞賛し、或は好奇心に動かれて、意外の時間と黄金とを、徒費する者が有るといふことである。
昔の班子には、前述の如き憲法が絶対に行はれ居たに相違ない、今でも支那人間には此旧慣に拠る点もあるが、此処にも時代の潮流は襲ひ来つて、そうした慣例は、滅茶苦茶に打破されて了つたのである。先客も先約も無く、身体の工合の悪くなかつた場合は如何なる妓女と雖も「住下」即ち「泊り込み」は可能であるといつてもよいのである「生客」の際に申込み悪いとしても、それを瀬踏みとして裏をし返た時には、如何なる要求も容れられるのである。若し不成功に終るとすれば、夫は其方法と形式と順序とを誤つたのか、又は玉代を出し渋ったかの二つに帰因する。