愈々本部屋に入る
斯くの如くにして、お客様と定まつてしまへは、引附部屋では万事都合が悪い。そこで愈々日本でいふ「本部屋」入りとなるのである。若し自分の部屋に先客があつた場合は、其侭引附け部屋を応用すること勿論である、偖て本部屋入りとなれば、夥計は大声で
△△姑娘屋子打簾子(何々姑娘の部屋の簾を揚げよ)
と呼ぶのである。これは妓女に附随して居る「踉人児」即ち「乾媽」日本の鴇母(やりて)仲居に告げて準備をさせる為めである。此場合日本の遊廓では、妓夫太郎や、仲居と嫖客との間に、遊興費に就て面倒な交渉が開始されるが、支那では少し趣きが異つて居るので、そうしたことも無く
請您(どうぞこちらへ)
と案内さるるのである。導るる儘に跟いて行くと、妓女の部屋となる、ヤリテ婆さんは、ムク鳥おざんなれと、入口の布簾を捲くつて持ち構えて居る。
部屋に入つて椅子に着くと、乾媽は茶の仕度をする、その間に敵娼は
您喫煙罷(煙草を召しあがりませ)
と煙草を勧める、そして改めて「您貴姓」を操返して姓名をたづね、今度は
您在那児住啊(あなたは何処に住んでいらつしやるの)
と住所を問はるるのである、女によつては其職業までも聞ただし身元調ベをやる。これは妓女のみに限らず、支那人一般に用ゆる初対面の挨拶であるから、別段怪まぬのであるが、馴れない日本人などはちよつと面喰ふのみならず、何だが馬鹿にさるるやうな気がする。しかし此場合「生客」初会の客たるものは、豪然として威厳を保ち、大人を気取らねはならぬといふから、支那の嫖客となる亦難い哉である。身元調ベが済んだ頃に、乾媽が茶を運んで来る
您喝茶罷(お茶を召しあがれ)
と、応酬に勉むる、茶と共に必ず「瓜子児」西瓜の実を出すのが慣例となつて居る。煙草を先にして茶を後にするといふことは、別にも深い意味がある。煙草は「乾的」といひ、茶を「湿的」といふ隠語がある、即ち「乾いたものが湿ふ」といふ意で、なかなか花柳界にとつては大事な縁起となつて居る、「煙と茶」に就ては、未だ面白い諷刺があるが、風俗攪乱となるから説明は見合して置かう。