居酒屋の客引
其一例として述ぶれば、北京の有名なる某寺の附近に某といふ居酒屋がある、所謂茶碗酒の飛切りを味ふ為めに、左党や粋人が行く有名な酒屋として、誰知らぬものは無い、東京でいへば牛込の「飯塚」見たやうな所である、飯屋が「神谷バー」に倣つて、一方高襟式な「山二バー」を設けても、横寺町の本家は依然として江戸式の縄煖簾で客を呼んで居る如く、此家も前清時代其侭の居酒屋として、北京名物の一つとなつて居る。此居酒屋を訪ふて見ると、解体の知れぬ男が大勢遊んで居る、それは皆暗門子の客引である、彼等はよき椋鳥御参なれと此処に待ち構えて居るのである、しかし客引と知つても露骨に言頼つては決して相手にしない、そこには或微妙なる呼吸があつて自ら交渉が纒るのであるが、それまで漕きつけるには余程の時日と経験を要するのである、而してそれを知らざれば北京に於て女を語る資格が無いといふことである。此酒屋に於ては「牙籤児」即ち日本の「楊子」の使ひ方に拠つて合図をするのであるが、それが素人には解らぬ。居留邦人中に二三人は此呼吸を心得て居る者があるといふことである。愈々此客引に伴はれ魔窟を探険する順序となるのであるが、少々説明を憚る点があるので茲には書かぬ。