楽戸の所在地と妓女の数
北京の公娼は、前章で述べた如く、頭等(清吟小班)二等(茶室)三等(下処)四等(小下処)の四等に区別されて居る。之等の楽戸妓館は外城及び城外に在る。内城に妓館を設くることは、清末以来厳禁してある、其所在地は
頭等は……前門外の所謂八大胡同及東西大森里に集まつて居る。
(二)二等は……八大胡同及び其附近一帯に集まつて居る。
(三)三等は……前記の一帯と、離れた所では崇文門外の黄花院附近等に在る。
(四)四等は‥‥‥主として、広安門内楽培園、広安門内四舖坑、朝陽外壇来道、西直門外黄土坑、徳勝門外校場辺、天橋等に在る、
北京に於ける、楽戸及娼妓数は北京の市政公所の調査(民国十一年末)に拠れば
頭等(清吟小班)九十三戸‥‥(芸妓)六百三十八人
二等(茶室)八十六戸‥‥(女郎)八百五十二人
三等(下処)百六十戸‥‥(同)一千七百四人
四等(小下処)三十戸‥‥(同)三百八人
合計三百六十九戸…………三千五百二人
といふ。今「楽戸規則」なるものを見ると、第一条に北京に於ける楽戸営業者を四等に分け、頭等は七十八戸、二等は一百戸、三等は百七十二戸、四等は二十三戸と制限してある。これ以上は超加することが出来ぬと定められて居るが、前述の如ぐ戸数を超加して営業しつゝあるから頗る曖昧である。兎に角之等公娼を許可した袁世凱時代(民国二年)の戸数三百五十三戸、妓数千九百九十大人に比すれば其増加の甚しいことが解る。此妓女に附随して生活する者は、優に二万位に達するであらうと思ふ。